多くの人が同じことをしていても、それだけで「社会」の働きを説明したことにはならない。デュルケームは『社会学的方法の規準』第I章で、社会学が独自に何を対象とするかを問い、個人の外にあり、個人の行為に働きかけるものを「社会的事実」として捉えた。以下では、原典の例から定義へ進み、最後に現代の医療の問いへ使う際の限界を確かめる1。
個人の外にある、とはどういう意味か
原典の出発点は、法の義務、道徳、職業上の慣行、言語、貨幣の使い方などである。私たちはそれらを日々使うが、一人で作ったわけではなく、本人が生まれる前から存在するものも多い。「外にある」とは、人々と無関係な場所に実体が浮かんでいるという意味ではない。個々人の好みや、その時々の行動だけに還元できないという意味である。言語は話す人を通じて続くが、ある一人が自由に語順や語の意味を決めても、その変更が直ちに通用するわけではない1。
この外在性は、個人の経験を無視してよいという主張でもない。原典は、各人に現れる行動や感情と、それらを方向付ける集団の規則や慣行を区別している。たとえば「ある職員が休暇を申請しなかった」という出来事だけでは、その職場の休暇制度や暗黙の期待を言い当てられない。規則そのもの、運用の仕方、ほかの職員への反応を調べて初めて、個々の出来事を超えた条件が見えてくる。これは原典の論理を用いた仮例であり、特定の医療機関についての実証結果ではない。
拘束は罰だけを指さない
デュルケームは、社会的事実の特徴として、従わないときに感じられる「抵抗」を挙げる。法律違反への制裁は分かりやすいが、服装の慣行から外れて笑われる、避けられる、通じない方法を使って物事が進まない、といった間接的な形もある。本人が進んで従っているときには、拘束は意識されにくい。抵抗してみて初めて、そこに規則があったと分かる場合がある1。
教育も原典の重要な例である。子どもは、時間の使い方、言葉遣い、他者への振る舞いを周囲から学ぶ。身についた後には「自分の習慣」と感じても、それが社会的に伝えられたという経緯は消えない。したがって「本人が自然にそうしているように見える」ことだけで、社会的な働きがなかったとは言えない1。
「みんながすること」との違い
第I章では、皆が食べたり眠ったりするからといって、それらを直ちに社会学固有の対象とはしない。多くの人に見られることと、集団の規則や期待によって形作られていることは、別の条件だからである。章の末尾では、個人の外から拘束を及ぼしうる行為の仕方、または個々の現れとは独立した存在を持ちながら集団に広く見られる行為の仕方として、社会的事実を定義する1。
したがって、職場で欠勤しにくい人が多いとしても、その頻度だけでは理由は分からない。就業規則、承認手続、同僚の反応、代替要員の有無を分けて調べる必要がある。逆に、文書化された規則があっても、実際には運用されていないかもしれない。規則の存在、従う人の割合、従わなかったときの反応は、別々に確かめる問いである。
書かれた規則だけでなく、集団の動きも見る
原典は、法や制度のように形を持つ規則に加え、集会の熱狂、憤り、同情の高まりのような「社会的潮流」も扱う。参加者は自分の感情として経験するが、集団から離れた後には、普段の自分とは違う動きに巻き込まれていたと気付くことがある。デュルケームは、個人の内面に見えるものにも集団の力が働きうることを、ここで示している1。
さらに原典は、出生・婚姻・自殺などの率を、個別事情から区別した集団の傾向を観察する手段として挙げる。ただし、「率が違う」だけで何がその違いを生んだかは分からない。現在の研究に当てはめるなら、誰を数えたか、分母は何か、記録方法が同じかを確認し、制度や関係を別に調べる必要がある。原典の統計に関する主張を、そのまま現代の因果推論の証明として使わない1。
この概念でまだ言えないこと
社会的事実という定義だけでは、ある制度が望ましいか、その制度が健康にどれほど影響したかは決まらない。職場の規範を調べても、個々人が欠勤や受診をどう意味付けたかは、本人の経験を別に聞く必要がある。ウェーバーの社会的行為は、そこに別の入口を与える。二つの見方を併用するなら、規則の働きと行為の意味をそれぞれどの資料で確かめたかを明らかにしたい。
関連記事「孤立への処方箋は、なぜ何度も書き直されるのか」は、医師の苦痛を個人だけでなく組織環境の問題として扱う研究の移り変わりを検討する。このノートは、その記事の研究結果を立証する資料ではない。記事を読んだときに「どの規則や慣行が働き、どう観察されたのか」と問い直すための基礎である。